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第3回 〜QOL の観点から見たがん医療・下〜

Quality of Life (以下QOL:生活の質) という言葉をご存知ですか。これは医療の現場で頻繁に用いられる概念です。病気になった方に医療を提供する。聞こえは単純ですが,非常に複雑な要素が組み合わさっています。病気になると痛みなどの症状による肉体的,精神的な苦しみ,これからどうなってしまうのかという不安,健康なときに可能だった生活ができなくなり,さらには収入低下など将来や家族に対する不安など様々な問題が生ずるのは想像に難くないと思います。病気が完治すれば再びもとの生活に戻れるかもしれませんが,多くの病気は完治しませんし(例えば糖尿病など),たとえ完治しても様々な障害が残ります(早期胃がんのため胃を切られ以前と同じ食生活が送れない。あるいは乳がんで乳房を切除したためにコスメティックな問題が残り,自尊心が低下するなどです)。また,治らない重大な病気にかかったときは治療はできても残りの人生が予想していたものより短くなったり,治療をしても症状がそれほど改善しなかったり,副作用でつらかったり,通院や入院により残された時間が消費されたりと様々な問題が生じます。

いわゆる生活の質,楽しさ,充実度が著しく低下します。これらを統合して「QOLの低下」と言います。私たちは患者さまを治療するにあたり,このQOLに重きを置いて,治療方法選択の決断をします。すなわち,治療のために病気以上に肉体的,精神的な負担が増すような治療は(たとえばがんの手術や抗がん剤,心臓病に対する心臓の手術など),それを乗り越えれば完治の可能性がある場合以外はあまりやりません。進行がんなどではしばしば緩和に徹し,積極的な治療を選択しない理由もそこからきています。患者さまに利益がないと考えられることは勧めないのです。私たちのいう "利益" とはその場だけではなく将来を見すえての予測も入ります。たとえばこの治療をすると将来の患者さまの状態と治療に悪影響を及ぼすことなども考慮します。"利益" には科学的に病気がよくなるということ以外に症状が改善しQOLが改善するということも含まれます。

医療には種々の合併症の危険が,程度の差はあれつきまといます。どんなに医師が注意深くやっても,時には不可抗力的に生じてしまう合併症,あるいは患者さまの特異体質や医療ミスにより期待通りの結果にならないことはたくさんあります。人はそれぞれ体力や体質に差があり,同じ治療をしてもうまく乗り切れる方とそうでない方といます。私たちは医学的常識とそれまでの経験を用いて判断しますが,常に例外的な事象はつきものです。

たとえば週に5人の新しい患者さまを診るとします。1年は52週あり,のべ260人の新しい患者さまに接する計算になります。10年では2,600人,20年では5,200人です。患者数の多い医師で週に10人新しい方を診たとしてもその倍の数です。経験を積んでも "これでよし" と全ての人々について共通なことはなかなか言えません。私たちはベテランになっても常に新しいことを学び続けます。60歳を超えた私の恩師の一人,ノースウェスタン大学血液科の大家,Dr. David Greenはこう言いました。"データや経験を使って医療をするが,もし不運だったら,どんなことでも起きうるから注意しなさい"。人生には予想もつかないこと,自分ではどうすることもできないことが常に起こる可能性があります。また医師も人間ですからミスはある一定の確率で生じます。どんなに優秀でもミスを犯さない人はいませんし,あるいはコンピュータでもたまに機能異常をおこすのは皆さんもご存知でしょう。合併症,ミス,悪い結果を必要以上に恐れていては医療はできません。私たちのできることは常に最善を尽くし全力で努力することだけです。
このように不確実性を内在した医療ですので(人間の全ての行動や,突き詰めてしまえばこの世の事象全てがそうですが),それを受ける患者さまにも覚悟が必要です。医師と医療のできることをしっかり理解し,そして自分のできることも理解する。そして自分と他人のためになるように思い切り努力することが人に与えられた課題なら,医師も患者さまもそのようにすべきでしょう。それをできるだけ実行することで人生のQOLは改善するはずです。

しかし人間は弱い生き物です。そのように言われたり考えたりしても実際に当事者になるとそうできないのも現実でしょう。症状で苦しい。今いる自分がいなくなる。それが近い将来におこる。自分はそれまでどうなるのか? 今までの努力はいったい何だったのか? 残される人々はどうなるのか? など何度考えてもなかなか納得のいく答えが出ないことと思います。それにともなう不安,怒り,無力感が患者さまを襲います。そして抑うつ的になりQOLが更に低下します。これはなにも病気になったときだけではなく,人生で苦い経験をしたときなどにも生じるでしょう。医療従事者である私たちはできるだけ努力してこのような問題を軽減するように努めています。しかし,患者さまの希望に沿う結果がでないことも多々あり,申し訳なく思うこともあります。

私にとって患者さまはみな友達であり家族です。科学的には最良の治療を選択し,病める人々の気持ちを理解するよう努め,常に優しく接するように心がけています。しかし,もちろん必要なときは厳しく接します。それは,理解していただきたいことがあるときです。
人間は無限に生きることはできないので,いつかは "その日" が来ます。それは今健康な方や我々医療従事者にも当てはまります。私もそのときになったら潔く自分と他人のために気持ちよく過ごしたいと思っています。下記に最近私が感銘をうけたエピソードをご紹介します。

米国ノースカロライナ州の元上院議員で元副大統領候補のエドワーズ氏が,今年3月22日,ご夫人エリザベスさんの乳がんが再発したと発表しました。夫人は2004年12月,ご主人の選挙での敗北が決定したと同時に乳がんと診断され,手術,化学療法,放射線の治療を受けました。その後2年が経過し,がんは治癒したと発表した直後のことでした。今回再発と診断されたときは既に骨に転移していました。このカップルはノースカロライナ大学法学部在籍中に知り合い,1977年に結婚しています。そして4人の子供に恵まれましたが,1996年に文才に秀でた一番上の子を交通事故で失いました。その悲しみを乗り越え,庶民派で人情味あふれる候補として2004年の大統領選挙を,ケリー上院議員とともに民主党から出馬して戦いましたが,惜しくも敗北。その生涯は決して易しいものではなかったと思います。がんの再発記者会見で,お二人は手を取り合って病状を説明した後,こう語りました。「私たちは以前もいくつかの困難に遭遇してきました。そのときいつでも選択肢は二つありました。一つは意気消沈して何もしないこと。もう一つは今まで同様できる限り元気に頑張ることです。我々は常に後者を選んできました。今後も大統領選の選挙活動をエリザベスとともに続けます。もちろん彼女が私を必要としているときは片時も彼女のそばを離れません」。またエリザベス夫人も以下のように言っています。「私のがんはもう完治することは不可能ですが,治療は可能で,幸運な場合何年も大丈夫な人もいます。 薬の影響で時折だるくなり, 休まなければならないときもあるかもしれませんが,日頃8歳と10歳の子供の世話で疲れるのと同じことです」。

私はがんになったこともなければ,人生経験もまだ浅く,エドワーズ元上院議員夫妻が経験した困難の本当の意味はわからないかもしれません。しかし,困難に出会ったとき勇ましく戦っていくことのできる人々の強靭な精神には畏敬の念で胸がいっぱいになります。特に子供を失うというのは死ぬよりつらいことであるのは想像に難くありません。限りある人生をこのように生き抜くことができるのは素晴らしいことだと思います。
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